本能寺の変!帰蝶はどこにいた?真実とは?秀吉の陰謀とは!

こんにちは! アツボ―です。

今日は、2/6土15:05〜15:55

歴史探偵「本能寺の変」の放送内容に

基づいて

「本能寺の変!帰蝶はどこにいた?真実とは?秀吉の陰謀とは!」

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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本能寺の変!帰蝶はどこにいた?

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

当時、女性の本名は明かさないのが普通でした。

そのため「出生地や親の居城」+「殿or姫or方」

という呼び名をつけられることは

珍しくないのですが、

濃姫については、

それ以外のことがまるっきり不明なのです。

本名は「帰蝶」だったという話もあり、

大河ドラマ『麒麟がくる』でも

そう呼ばれておりますね。

道三は信長の父・織田信秀と

数年来争っていましたが、

美濃との同盟を決断しました。

和議が成立し、

濃姫との結婚となりました。

そもそも濃姫に関する記録で、

各書物共通の事柄は結婚した

ときのことしかありません。

その後どうしていたか

不明の部分が多いのですが

大きく分けて次の説があります。

子供ができないので離縁した!

あるいは病死したという説です。

それに、道三は

「ワシの息子(斎藤義龍)より

婿殿(信長)のほうが頭イイから、

美濃は婿殿に譲るよ!」という

遺言を残していたと司馬遼太郎さんが

「国盗り物語」で言っていますが、

もし濃姫と別れるとなると

信長は「美濃の後継者」

名乗れなくなるということにもなりますね!

早いうちに病死したというのは

否定し切れませんね!

本能寺の変!真実とは?

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

天正10年(1582)の6月2日、

天下人として君臨していた織田信長が、

京都の本能寺で家臣の明智光秀によって

死に追い込まれました。

「本能寺の変」です。

信長は、毛利輝元の属城であった

備中国(岡山県)の

高松城攻めをしている

家臣の豊臣秀吉を

支援するため上洛し、

この日は本能寺に宿泊していました。

諸将に出陣を命じていたため、

信長自身は100人程度の

従者しか連れていませんでした。

光秀にとっては、絶好の機会でありました。

古来、奇襲は「夜討ち朝駆け」

が常套とされていました。

敵が油断している夜間や早朝に

奇襲をすることで、

不意をつくという戦術です。

光秀の軍勢が本能寺を包囲したのは、

午前6時頃のことだったから、

典型的な「朝駆け」ですね!

本能寺は石垣や堀を擁する城郭寺院で、

それなりの防御力をもっていましたが

1万3000ともいわれる大軍に包囲されては、

為す術はありませんでした。

 

本能寺の変!秀吉の陰謀とは!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

五摂家筆頭である近衛家の長男に生まれた

近衛前久という人物!

織田信長と二人は互いの才を認め合い、

時に戦い、時に「蜜月」を送ったといいます。

朝廷の最高実力者だった前久と信長が

食い違ったのは、安土城

「御所」にしようとした

信長の意図が明らかになったからです。

「あろうことか、天皇の上に立とうとするなど、

到底許されることではありませんでした。

前久は、信長と袂を分かつ決意を固めます」

そして、前久が練った信長謀殺計画に

光秀も組み込まれたと推測できます。

この計画には将軍足利義昭

関わっていた証拠があるといいます。

さらに、本能寺の変の後、

秀吉だけが備中高松から戻り、

光秀を討てたのは、事前に周到な

準備があったからだ、

と推測できます。

前久は秀吉にも密使を送り、

仲間に引き入れようとしました。

秀吉は一旦これに応じた。

あるいは応じるふりをして、

「光秀軍を討てば天下を獲れる」

と算盤をはじき、「中国大返し」

実現する準備をしていたと思われます。

「前久は娘の前子(さきこ)を

関白秀吉の養女とし、

後陽成天皇の女御として

入内させています」

『本能寺の変』で手を汚した二人が、

互いの利益のために手を結び、

変の真相を徹底して闇に葬ったのです。

いかがだったでしょうか!

最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。