今井宗久 豪商で茶人、織田信長、明智光秀との関係は!【麒麟がくる】

こんにちは! アツボ―です。

皆さんは、麒麟がくるに登場する今井宗久という人物をご存じですか!

今日は、今井宗久 豪商で茶人、織田信長、明智光秀との関係は!と題して調べてみまし

た。どうぞご覧ください!

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今井宗久は 豪商で茶人!

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日本で最初の武器商人!

堺の豪商であり茶人。永正17年(1520)生まれ、通称彦八郎といいます。

立身出世を志し、南蛮貿易で活気溢れる堺へ出て納屋宗次宅に身を寄せ、

商人として修業を重ねます。このとき、商人としての教養を身に付けるため、

豪商で茶人の武野紹?に茶の湯を学びます。

門に津田宗及や千利休もいましたが、宗久は紹?に気に入られ娘婿になります。

やがて納屋宗次から独立し薬種業を始めます。

機を見るに敏な宗久は、鉄砲の時代を予測しました。

天文17年(1548)、火薬の原料(硝石)を独占的に買い占め、同21年(1552)には

内鋳物師を集めて鉄砲の生産に乗り出します。

高性能の火縄銃を生産して戦国武将の注目を集める一方、茶会を通じて武将や堺の豪商た

ちとの人脈を広め、会合衆の仲間入りを果たします。

弘治元年(1555)紹?が53歳で急逝すると、紹?の長男・宗瓦が幼少だったため娘婿の宗

久が後見人となり、武野家の財産管理を任されます。天下を狙う織田信長が上洛すると、

茶器の名品「松島の茶壺」や「紹?茄子」などを献上し、信長に取り入りました。

また、永禄12年(1569)に信長が堺の豪商たちに2万貫の戦費を要求した際、

宗久は会合衆たちを説得してこれに応えました。この功績により、宗久は信長から堺五箇

庄の代官に任命されます。

こうして宗久は、信長の庇護のもと、塩合物座(塩魚や干物を扱う商人組合)の権利、

淀川通行船の関税免除、生野銀山の開発などの特権を次々に得て、政商としてのし上がっ

て行きます。

また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務め、天下の三宗匠と称さ

れました。

今井宗久 織田信長、明智光秀との関係は!

今井宗久 と織田信長!

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宗久は織田家の茶頭、つまり茶の湯を取り仕切る人物のひとりになったのだが、

信長は必ずしも茶人としての宗久を評価したわけではなかったようです。

信長が目をつけたのは宗久が発言力を持つ堺という都市の経済力であり、

また宗久自身の財力と実務能力であったと考えられます。じっさい宗久は茶頭になる前

に、信長からの矢銭(軍資金)2万貫の要求を受けて憤る堺の商人たちを説得し、矢銭を

出させています。

また、新兵器である火薬・鉄砲を大量に生産することにも成功しており、

交渉人・商人としての腕は非凡であったと言ってよいでしょうね!

今井宗久と明智光秀!

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光秀とは茶の湯、また織田家の経済政策に関係して結びつきがあったようです。

光秀は畿内を中心に活躍する武将であったから、宗久をはじめとする堺の商人たちとの縁

が深くなるのは当たり前と言えます。このような事情から「本能寺の変黒幕は堺商

人たちだったのではないか」と考えた人もいるようですが、少なくとも宗久はその容疑者

から外した方がいいかもしません。

なぜなら、「本能寺の変」後の宗久は著しくその存在感を失っていきました。実質的に信

長の跡を継いだ豊臣秀吉も彼を茶道として登用はしたものの、重用したのは千利休や津田

宗及であって、宗久は疎んじられていました。それでも秀吉が催した北野大茶会にはその

姿が見られますが、以後その活躍は目立たないようです。

いかがだったでしょうか!

今日は、今井宗久 豪商で茶人、織田信長、明智光秀との関係は!と題して調べてみまし

た。お役に立てば幸いです。