青い目の侍三浦按針とは!子孫樹木希林?屋敷跡は何処にある?

こんにちは! アツボ―です。今日は

2/6土21:00〜21:54

世界ふしぎ発見!青い目のサムライ!!

の放送に基づき

「青い目の侍三浦按針とは!子孫樹木希林?屋敷跡は何処にある?」

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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青い目の侍三浦按針とは!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

564年(永禄7年)にイギリス東部の

ジリンガムに生まれ、12歳から

造船所で徒弟として働いた

ウィリアム・アダムス。

その後12年間は造船や天文学、

航海術を学び、さらに海軍船長や

北極探検なども経験。

34歳で、5隻からなるオランダ東洋遠征隊に

主任航海士として乗船、東洋へと出帆しました。

航海は困難の連続でした。

食料などの補給も難しく、

南極に近いマゼラン海峡での過酷な越冬、

先住民の襲撃などにより、艦隊はやがて

アダムスたちが乗ったリーフデ号ただ1隻

それでも貿易船としての責務を果たすため、

針路を日本へと取り続けたリーフデ号は

ついに日本の陸影を確認しました。

オランダ出帆から1年10カ月、

もはや帆走能力を失った状態で、

現在の大分県臼杵市佐志生に漂着しました。

時は1600年(慶長5年)4月、

天下分け目・関ケ原の戦いのわずか

半年前のことでした。

漂着したアダムスを、

徳川家康は大阪城に呼び引見しました。

アダムスが持つ知識や公平

人柄を見抜いた家康は、

関ケ原の戦いの勝利後、

江戸日本橋にアダムスの屋敷を用意しました。

家康自身は数学や地理学を学び、

重臣たちには砲術や航海術

天文学を指南させ、

また、幕府の外交顧問としても

重用していきます。

島国・日本で海上運送の必要性を感じていた

家康は1604年(慶長9年)、アダムスに

本初の洋式帆船の建造を命じました。

アダムスは「海に注ぐ河口がある」

「用材を切り出せる天城山系が近い」

「有能な船大工が揃っている」などの観点から

伊豆の伊東が適所見極め、

松川河口で日本初の

洋式帆船造りをスタートしました。

青い目の侍子孫樹木希林?

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

希林さんの父親・辰治の旧姓は三浦です。

三浦家は代々、東京・足立区で

青果問屋を営んできました。

果問屋の名前は葛西屋といいました。

希林さんのはとこである中嶋喜文さんは、

「三浦按針は白人で、

中嶋の家系はみんな色が白く背も高い」

などと話していました。

ウィリアム・アダムスは徳川家康から

現在の三浦半島の領地をもらい、

それ以三浦按針を名乗りました。

歴史研究家の鈴木かほるさんは、

「三浦按針は子ども

が男女一人ずついる。

その長子が二代目の

三浦按針を継いでいるが、

二代目の三浦按針は子が無くて

家が途絶えたとされている」などと話しています。

大正時代、青果問屋を営む希林さんの

祖父・三浦眞吉のもとに、飯塚歌が嫁にきました。

歌の戸籍には、「飯塚家はかつて士族だった」

と書かれています。

歌には、飯塚家から持参したという

徳川慶喜本人の直筆の書がありました。

書を鑑定してもらうと、

山岡鉄舟の書だということが分かりました。

書には、「家人初方照」と書かれています。

由緒書には、1746年に方照が

一橋徳川家の家臣になったと書かれていました。

さらに鑑定を進めると、歌の曽祖父に宛てた

徳川慶喜からの手紙が見つかっています。

青い目の侍屋敷跡は何処にある?

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

安針塚は、神奈川県の横須賀市にあります。

横須賀は軍港の街であり、

日露戦争の際に、

当時最強と言われた

ロシアのバルチック艦隊を破った

「戦艦三笠」があることでも有名ですね!

安針塚はそんな横須賀から少しだけ

東京寄りの場所にあります。

安針塚というと、京浜急行の駅になっており

金沢文庫・金沢八景と横須賀中央の

間にある感じです。

安針塚駅は栄えている

横須賀中央とは異なり

住宅街なので、その他には目立った

観光地は特にない感じですね!

でも、安針塚がある塚山公園

桜の名所であったり、

近くにある田浦には

田浦梅林という見所があります。

いかがだったでしょうか!

最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。