パリ万国博覧会と渋沢栄一!日本は万博に何を出品したのか!

こんにちは! アツボ―です。

今日は、5/28(金)15:10〜15:55

歴史探偵「渋沢栄一inパリ万博」

の放送内容に基づき

「パリ万国博覧会と渋沢栄一!日本は万博に何を出品したのか!」

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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パリ万国博覧会と渋沢栄一!日本は万博に何を出品したのか!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

渋沢栄一は明治・大正期における実業家の

トップリーダーであり、

当時を代表する財界の第一人者であるが、

実は1867年第2回パリ万博に

御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)として

参加したことが一つの転機となっています。

渋沢は1840年、埼玉県の豪農の長男として生まれたが、

国事に熱中し、過激な尊王攘夷論者でした。

高崎城をのっとり横浜を焼き討ちする攘夷行動を

起こそうとしたが頓挫し、京都に出奔しました。

間もなく水戸の一橋家に仕官し、

一橋家の農兵編制、財政改革、殖産興業、

軍制刷新などに才能を示したが、

一橋慶喜の将軍職就任と共に幕臣となりました。

1866(慶応2)年、フランス皇帝ナポレオン三世から

幕府宛に、1867年にパリで開催する万博への出品要請と

元首招請についての書簡が届きました。

そこで、幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を

名代として派遣することにしました。

昭武は当時14歳で、異国でのこの幼君の警護役として

水戸藩士7名が選出されたが、

忠義心も強いが頑固な攘夷論者でもある彼らの

取りまとめ役として随員に加えられたのが、

かつて過激な尊王攘夷論者であった渋沢栄一でした。

その上、算数に明るく、理財の念に富んでおり、

その有能な実業家的手腕も期待されていました。

渋沢は、担当の庶務及び会計について手腕を発揮し

経費削減につとめ、博覧会出品物の売却等も行いました。

そうした万博に関する使命を果たすかたわら、

1年半ほどのパリ滞在中に、

経済の理法、合本(株式会社)組織の実際、

金融(銀行)の仕組みなどを調査、研究しました。

それらが、後に近代的企業の設立、

租税制度や貨幣制度等の改正・改革へと繋がっており、

また大財閥を形成した素地となっているのである。

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

渋沢は、パリ万博随行の際に『航西日記』を著しており、

そこにはパリ万博の規模や世界各国の参加状況、

展示会場の様子、その時期のパリ市中の模様、

各国元首の動静などが詳細に書かれています。

また、日記の至るところで、西欧文明の進歩に

感嘆している心境が述べられており、

渡欧の4年前まで過激な攘夷論者であった渋沢が、

西欧文明に接してどのような変化をし、

後の活躍へと繋がったのかを知ることができます。

参考文献:

渋沢華子 『渋沢栄一、パリ万博へ』 国書刊行会 1995 

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

1904年(明治37年)、アメリカのセントルイスで、

ルイジアナ州の買収100周年を記念する

万国博覧会が開かれました。

この万博に参加した日本は、会場に日本庭園を造りました。

アジ歴では、前年の1903年(明治36年)の準備段階で、

「臨時万国博覧会事務局」が陸軍に送った資料から、

この日本庭園の様子を知ることができます。

写真は庭園の俯瞰図です。

これを見ると、池や川が作られ、

石灯籠や岩、松などの樹木が配置された、

かなりの広さをもつ本格的な日本庭園で

あったことがわかります。

この中に日本家屋がいくつか建てられていますが、

中でも目を引くのが、庭園の中央近くにある

金閣ではないでしょうか。

日本文化と言えば、日本庭園。

そして、日本の建築物の代表としては、

やはり何よりも金閣を紹介したかったのでしょう。

わざわざアメリカの万博会場に、

この壮麗な建物を再現して見せているところに、

強いアピールの姿勢が感じられます。

いかがだったでしょうか!

最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。