災害と日本人!史上最大天正地震!浅間山大噴火!

こんにちは! アツボ―です。

今日は、3/9(火)15:10〜15:55

歴史秘話ヒストリア

「災害と日本人 先人はどう向き合ってきたのか」

の放送内容に基づき

「災害と日本人!史上最大天正地震!浅間山大噴火!

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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災害と日本人!史上最大天正地震!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

「本能寺の変」以後の天正後期から

徳川幕府が成立した慶長年間までも、

日本列島が多くの地震に

見まわわれた時期でした。

全国統一を巡って豊臣秀吉、

徳川家康、伊達政宗らは

互いにしのぎを削り合いながら、

災害対応や復興策にも取り組んで

いかなければならなりませんでした。

の軌跡を追ってみました。

戦術の天才、豊臣秀吉も地震に

振り回された(大阪市)

1586年(天正13年)1月に

列島の中央部を襲った「天正大地震」

マグニチュード(M)8クラス、

最大震度6だったとされています。

富山県高岡市の木船城は陥没して

主・前田秀継(利家の弟)が死亡し、

岐阜県白川村の帰雲城も

城下もろとも埋没しました。

このため城主一族が滅亡するなど

被害は中部、東海・北陸の

広範囲に及びました。

最大の被害者は天下統一に

半分王手をかけていた秀吉でした。

長らく居城としてきた琵琶湖畔の

長浜城が液状化し、当時の城主・山内一豊の

娘が犠牲となりました。

宣教師ルイス・フロイスの記録では

このとき大津市に滞在してい

た秀吉は当面の計画を全て中止し、

最も安全とみられた大阪城へ

一目散に避難したといいます。

国際日本文化研究センターの

磯田道史・准教授は

「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、

「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」

だったと指摘しています。

この地震がなければ、家康が2カ月後に

秀吉の大軍から総攻撃を

受けるはずだったとしています。

84年の「小牧・長久手の戦い」では

勝った家康だが、その後の秀吉は

紀州や四国など版図を飛躍的に

拡大し彼我の軍事力には

大きな差がついていました。

徳川家の実質ナンバー2だった

石川数正も秀吉側に転じており、

秀吉は家康征伐を公言していました。

ところが震災で前線基地の大垣城が全壊焼失、

同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したといいます。

秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・

伊勢地方の被害が大きく、

戦争準備どころではなくなっていたのです。

秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ、

家康は豊臣政権ナンバー2の座を

確保し将来に備えることができたのです。

歴史とは分からないものですね!

もしこの地震がなかったなら

世の中又違った方向に行っていたかも

しれませんね!

災害と日本人!浅間山大噴火!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

1783年5月9日昼前に噴煙が立ち上がり、

火山灰が主に東方向に降り積もりました。

その後1ヶ月ほどは比較的静穏で

あったようだが、7月17日夜に

大噴火が始まり火口から北に

10キロメートル近く離れた嬬恋村鎌原でも

軽石が10センチメートルほど降り積もりました。

25日には噴火の勢いはさらに強まり、

断続的に高い噴煙柱が立ち上がり、

降灰は江戸でも認められました。

8月4日の夕方から翌日の未明にかけて

噴火はクライマックスに達し、

17時間にわたって大量の軽石や火山灰を

東南東方向にもたらしました。

この浅間山天明噴火の被害は、

火砕流や岩屑なだれ、

それに泥流による直接的なものだけで

済まなかったのです。

噴き上げられた火山灰や火山ガスの

影響で日射量が減少し、

東北や関東地方では冷害のために

農作物は壊滅的な打撃を受けました。

アイスランドのラキガル火山の

大噴火による影響も加わり、

「火山の冬」と呼ばれる現象が起きたのです。

そしてこれが引き金となって近世日本で

最大の「天明の大飢饉」が発生しました。

一説によるとこの大飢饉による死亡者は

数十万人にも及ぶといいます。

当時の日本の人口は約3000万人と

する推定に基づけば、日本人の約1%が

餓死したことになります。

私たち日本人は、このような

危険な火山と共に暮らして

いることを忘れてはならないのです。

浅間山今日も穏やかであって欲しいですね!

いかがだったでしょうか!

最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。