真田の城ゆかりの地とは!上田城難攻不落!大坂の陣は凄かった!

こんにちは! アツボ―です。

今日は、2/5金12:20〜12:43

BSコンシェルジュ

「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城〜千田嘉博〜」
の放送内容に基づいて

「真田の城ゆかりの地とは!上田城難攻不落!大坂の陣は凄かった!」

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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真田の城ゆかりの地とは!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

「幸村」と「信之」が幼少時代から

青年期を過ごした群馬県には、

「真田太平記」における前半部の

エピソードが集中しています。

武田家最後の主君「勝頼」を守り抜くつもりで

あった難攻不落の天然の要害

「岩櫃城(いわびつじょう)」

太平記では、昌幸が草の者の

頭領「壺屋又五郎」に指示を与えたり、

信之、幸村に真田家の行く末を語った部屋

「地炉の間」のシーンが思い出されます。

北条氏との激烈な争いの最前線であった

沼田城も真田家の重要な拠城です。

特に、信之と敵味方に別れて西軍についた

昌幸と幸村が城主不在時に開門を迫った際、

武装した兵士とともに信之の妻「小松姫」が

門前払いするシーンで有名です。

沼田城の支城である「名胡桃城」も、

太平記では、人気キャラクター「お徳」

昌幸の娘「於菊」を生んだ場所として

印象深いですね!

この名胡桃城を北条氏に

奪われた「鈴木主水」が、

武士の責任を取って切腹したのが

沼田にある正覚寺です。

これがきっかけで豊臣秀吉の

「小田原征伐」につながるなど、

歴史的にも大きな意味を持っています。

正覚寺には「小松姫」も眠る墓もあります。

親子三人が一丸となって外敵と戦った姿や、

野山を駆けて暗躍する真田家の

忍者部隊「草の者」たち!

猿飛佐助が有名ですね!

岩櫃と沼田の間を馬を早駆けして行き交う

使者の様子など、

群馬県の真田ゆかりの地には、

時を超えて様々な想いを巡らせる

醍醐味があふれています。

真田の城上田城難攻不落!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

真田信繁(幸村)の父、

真田昌幸によって築城された上田城は、

1585年(天正13年)の第一次、

1600年(慶長5年)の第二次上田合戦で、

二度にわたり徳川軍を

撃退した実戦経験もあり、

歴史好きにはたまらない

“難攻不落の城”として知られています。

徳川についた昌幸は、

上杉に圧力をかけるため、

早速、上杉と徳川の領土の境目にある位置に

新たな居城を建て始めました。

これが上田城です。

築城にあたり昌幸は、“徳川勢最前線の城”

として築城する為、家康の許可と援助を請い、

上杉勢の横やりが入る中で

突貫工事が行われました。

昌幸は、真田の居城である上田城を、

徳川の軍事力と資金と人材を利用し、

徳川の事業として築城させたのです。

ここが、知将、昌幸の凄いところですね!

真田の城大坂の陣は凄かった!

大坂冬の陣で豊臣方の知将・真田信繁

(さなだ・のぶしげ)(幸村(ゆきむら))の

名声を響かせた真田丸の戦い(1614年)で、

真田勢に撃退された徳川方「加賀百万石」

前田勢の戦況報告書が見つかったことが、

分かりました。

前線に遣わされた指揮官が記したもので、

血気にはやる上級武士を抑えられず

混乱する状況が新たに判明しています。

激戦の実態に迫る史料として注目され、

調査した岡嶋大峰(ひろたか)・

大阪城天守閣学芸員は

「真田勢の知略が注目されてきたが、

前田勢の組織運営に起因する

敗因も浮き彫りとなった」と話しています。

真田丸の戦いは、信繁が

大坂城の南側に築いた出丸

真田丸をめぐるわずか1日の攻防戦です。

これまでに明らかになった史実によると、

前田勢は真田丸の手前の丘陵地

「篠山(ささやま)」に

敵がいるとみて攻めるが姿はなく、

真田丸に向け進軍すると、

真田側の挑発を受け、さらに堀に乱入。

彦根藩の井伊直孝や越前藩の

松平忠直の軍勢も続いたが、

銃弾、矢、落石を浴びせられ、

侵入できないまま敗走しました。

いかがだったでしょうか!

今日も、最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。