武田勝頼!無能か有能か?最後はいかに!忠節を尽くした家臣たち!

こんにちは! アツボ―です。

今日は、先人たちの底力 知恵泉 選

「組織の命運 その決断の時 武田勝頼(後編)」

2021年2月2日(火) 22時00分~22時45分 の放送内容

に基づき

「武田勝頼!無能か有能か?最後はいかに!忠節を尽くした家臣たち!」

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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武田勝頼!無能か有能か?

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

信玄は1573年に織田・徳川連合軍と

遠江の三方ヶ原で戦い、

大勝利をおさめました。

しかしその数カ月後には病に倒れ、

死去してしまいます。

その際に勝頼は信玄の後継者として

武田姓を名のり、

武田氏二十代目の当主となります。

信玄が死んだことが伝わると

敵対する勢力への影響が大きいためか、

表向きは信玄は隠居したことになっており、

勝頼を後見していることにしました。

勝頼の長所と短所!

長所としては、戦闘指揮能力の高い事ですね!

対徳川、対北条では、長く優位な

戦況を保っていました。

短所は、外交センスが最悪な事です。

御館の乱で北条家と断交してしまった事は、

自らの生命線を断ったと言ってよく、

戦国時代全体で見ても、

最悪な外交選択のひとつです。

もうひとつは、

戦略的な思考能力の低さです。

北条家と断交後、佐竹氏、

宇都宮氏らと連携して、

上野の北条領の侵略を進めるべく、

兵の主力を投入して、

かなりな成果は挙げられましたが、

肝心の遠江や美濃の国境地帯の、

防御が手薄になってしまいます。

その結果、高天神城の陥落、

木曽義昌の離反といった、

滅亡の引き金を引いてしまいました。

武田勝頼!最後はいかに!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

天目山の戦いページにて記載した

武田勝頼最後の出来事は、

江戸時代の軍記・甲陽軍艦や甲乱記などに

記載されている事項によるもので、

武田勝頼が華々しく

散ったように書かれています。

しかし、ご存知のとおり甲陽軍艦の

記述は疑わしい点が多くすべてを

信用できません。

実際には、武田を攻めた徳川勢の記録

「三河後風土記」により、本当の

ところがわかってきます。

天目山の栖雲寺を目指していた

武田勝頼一行は、徳川勢に先回りされて、

日川の渓谷沿いにて

「挟み撃ち」を受ける格好になりました。

田野に戻った武田勝頼は、

最後の戦闘にも参加することなく、

具足櫃の上に腰掛けていたようです。

滝川一益の部隊が鳥居畑で

武田勝頼らに追いついた際に、

嫡子・武田信勝は防戦し討死しました。

武田勝頼を守っていた金丸定光や

土屋昌恒(土屋右衛門尉昌恒)も、

滝川一益の家臣・滝川儀太夫によって

簡単に討ち取られたようです。

その直後、側面よりのちの福島正則の家臣・

伊藤永光(伊藤伊右衛門永光)が武田勝頼を襲い、

一刀のもとに討ち果たして首を挙げたと言います。

武田勝頼!忠節を尽くした家臣たち!

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

武田勝頼終焉の地・景徳院にある

牌子」には武田勝頼・北条夫人・武田信勝のほか、

この田野で討死・自害した

武将などの物が存在します。

すなわち、逃亡する将兵が多い中、

最後まで武田勝頼に忠節を尽くした

忠義の士です。

甲陽軍鑑には侍44人、女房衆23人、

主従合計70人とあります。

甲斐国志には士46人、侍婢23人、

主従合計72人とあります。

田野の景徳院の牌子では武田勝頼、北条夫人、

武田信勝の他に、僧が2人、士33人、

女子16人の計54人とあります。

土屋昌恒は武田信玄からも

次世代を担う武将として

期待されていた勇将で、

武田勝頼の代になってからも

戦いの多くに参加します。

1581年の上州・膳城の合戦では

鎧を付けない素肌で城の大手に

乗り込んだと言う逸話もあります。

織田・徳川勢が甲斐に侵攻し、

続々と武田家臣が離反する中、

土屋昌恒は兄・金丸定光と共に

最後の最後まで武田勝頼に従いました。

いかがだったでしょうか!

今日も、最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。