先人たちの底力!徳川家康を支えた家臣団の秘密とは?

こんにちは! アツボ―です。

今日は、5/4(火)12:00〜12:45

先人たちの底力 知恵泉「家臣はボクの宝です 徳川軍団 天下を取る」

の放送内容に基づき

「先人たちの底力!徳川家康を支えた家臣団の秘密とは?」

と題して書いてみました。

どうぞ皆さんご覧ください!

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先人たちの底力!徳川家康を支えた家臣団の秘密とは?

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

家康はいかにして強固な組織づくりに成功したのか。

そして徳川家臣団はなぜ覇者のチームに成長することができたのか。

そこに組織づくりの重要なエッセンスがあります。

徳川家臣団を語るうえで欠かせないのが三河武士団の存在です。

家康の父、松平広忠はまだ幼い家康を今川に人質に出し、

弱小だった三河の存続をはかりました。

だが広忠は家臣の謀略によって命を奪われ、

本拠地の岡崎城は城主が不在となります。

そのため今川から代官が派遣され、

三河は今川の属国のような扱いになってしまいます。

この家康の人質時代に岡崎城を預かっていたのは、

本多、榊原、石川、鳥居といった長老たちでした。

いわゆる三河武士団です。

この長老たちは、のちに家康を支える本多忠勝や榊原康政

といった重臣たちの親世代であり、

家康の祖父にあたる松平清康の時代からの家臣でした。

若くして三河を統一する勢いだった祖父の清康は

非凡な才能をもった英明な君主と期待されながら、

政略によって家臣に殺されてしまいました。

この無念を晴らすべく家康に期待していたのである。

窮乏生活に耐えながらも、

いつかは家康を岡崎城の城主に迎え入れるという思いが、

彼ら三河武士団の結束をいっそう固めたともいえます。

ゼロから人を集めるのは大変だが、

すでに三河には松平家には優秀な人材が存在していました。

雪辱に燃える高いモチベーションをもった古参の家臣団が、

松平家復興のために準備を怠らず、

あとは領主の帰還を待つだけになっていました。

1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いで今川義元が

織田信長に敗れたのを機に、

家康は岡崎城に戻り、ようやく今川から独立します。

ここから本格的な組織づくりが始まるのである。

出典元:https://www.yahoo.co.jp/

家康はそうした家臣に恵まれていました。

その代表が徳川四天王と呼ばれる、

酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政です。

酒井忠次は徳川のナンバー2として家臣団を支えた重臣でした。

家康の親の代からの家臣で、家康よりも15歳、

榊原康政と本多忠勝よりも21歳、井伊直政にいたっては

34歳も年上でした。

家康が今川義元の人質だった時代から仕え、

苦楽をともにしてきた腹心です。

榊原康政と本多忠勝は武功派の重臣です。

今川から独立し、岡崎城に戻った家康だが、

決して基盤が安定していたわけではなかった。

家康の統治を望まない者もいたのである。

そうした対抗勢力との戦いが1563年(永禄6年)の

三河一向一揆です。

一揆の側には松平家の家臣も多く、

三河武士団を二分する混乱を招きました。

この事件は三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、

家康の三大危機とされています。

この窮地を救ったのが、本多忠勝と榊原康政です。

本多忠勝はわずか16歳で、一向宗の門徒でありながら、

家康とともに戦うために浄土宗に改宗し、

並外れた武芸の腕を発揮し、一揆の鎮圧に貢献します。

榊原康政も忠勝と同じ16歳で、まだ元服していませんでした。

にもかかわらず、みずから志願して先陣を務め、

相手を圧倒する働きをみせました。

この2人はのちに旗本先手役となって多くの武功をあげます。

本多忠勝は57回の戦のなかで、

一度も刀傷を負わなかったという逸話を残します。

井伊直政も武功派だが、譜代の家臣だった忠勝や康政と違い、

もとは今川の家臣でした

若いうえに外部からの中途採用でありながら

異例のスピード出世を遂げるのです。

徳川家臣団に入れば、若い自分でも、

あるいは主君を失った自分でも、活躍の場がある!

そう思わせることで、多くの優秀な人材を

引き寄せることが可能になったのでしょうね!

いかがだったでしょうか!

最後までご覧頂きありがとうございます。

皆様のお役に立てれば幸いです。